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2013
05.31

人間のチカラ。

Category: 平和と戦争。
想像力と、創造力。

偉大なチカラ。
ふたつのソウゾウ。


女子力も、人間力も、コミュ力も、後から作ったモノにすぎない。
なにか人間の持っている性質的なものを切りだして、イデアのあるように言う。

人間の力とは、そんなもんじゃない。
想像力と、創造力。
これこそ、人間の持つ最大かつ最高のチカラ。
どんなことでも限りなく思い描ける、驚異の力。
思い描いたものを現実にしてしまう、驚異の力。


しかし同時に、最大の脅威たりえる。
自然を壊滅させることも、地球から生物を絶えさせてしまうことも想像できてしまう。
そして実際に、それを可能にする手段を持ってしまっている。

この最大の脅威をしりぞける手段は、人間の最大の力しかない。
最悪の事態を想像し、それを避ける方向へ将来を創造すること。
ソウゾウリョクとは、そのものが脅威である一方、それを克服できる唯一の手だてなのだ。


聖戦という概念があるが、これは外にある「悪」を殲滅する戦いではない。
自らの内にあるこのチカラと、どう向き合っていくか。
自らの諸刃の剣の使い方を決する自分自身との戦いのことを指すのだ。
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2013
05.31

自然の浪費からの脱却。

Category: 経済のハナシ
企業側も消費者側も、大半がそれに加担してしまっているのが現状。

企業は動かないさ、彼らにとって利益は命。
四半期の生なき命をつなぐために、利益は不可欠。

変えられるのは、他でもない我々消費者。
市場は、金を払うのは我々だということを忘れてはいない。
国や企業はすっかり記憶にないだろうが。


外国産は買わない。国産を買うべし。
できればより地元に近いものを。
大規模小売店では買わない。ローカルの店をひいきに。
グローバル企業になんて金を払うものか。

既製品より、出来合いのものより、材料を。
大事な農林水産業を自分たちの手で保護すべし。
モノづくりは、我々の手に取り戻す。
大量生産大量消費は、労働者から価値と時間とを奪う。
人間から自然を奪う。


放っておけば、自然はすぐに失われる。
失われつつある自然をめぐって、奪い合いが起こる。

そしてもうすでに起こっているではないか。
奪い合いも、自然の荒廃も。


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2013
05.31

科学は人を救えるか?

Category: 雑感。
人間の歴史は、科学の進歩とともにつづられてきた。
科学の発達が、戦争形態を変え、生産を変え、統治を変えてきた。

科学はいま、多岐にわたっている。
科学者でない我々には、いったいどこまで研究されているのかすらわからない。
科学者自身も、自分の専門外のことはおそらく見当もつかない状態だろう。

ただ、はっきり分かることは、ある。
人を殺す技術の開発と、人を生かす技術の開発の双方があるということ。
どちらも科学が生み出したということ。
前者は否定されてしかるべき。
ただ、ダイナマイトを開発した彼は、人を殺すために使われるとは思いもしなかったらしい。
後者は、喜ぶべきことか。


科学による医療の発達。
この言葉づかいは少々間違っているかもしれない。
正確には、科学は「西洋医学」の発達に寄与してきた。
東洋医学、それから「第三の医療」に科学は与していない。

簡単に言えば、西洋医学とは「悪いところを取ってしまえば治る」を基本とする。
外科的手術がされるのはこのためである。
最近は、さらに過激化して「悪くなる可能性が高いというだけで取ってしまう」こともするようだ。

一方、東洋医学、そして「第三の医療」は違う。
東洋医学はわかる。漢方その他を用いた医療。
「第三の医療」とはいわばマインドコントロールのようなものだ。
「プラシーボ効果」というものもその一種だろう。
「治るのだ」と信じることによって身体は治ってしまう。


今の日本では、西洋医学が主流である。
そして、日本の医療技術は非常に高い。
今まで治せなかった病気が、治るようになってきている。

しかし一方で、今までなかった病気も現れている。
狂牛病、鳥インフルエンザ、アルツハイマー、など。
数えだしたらきりがないだろうし、これからもどんどん増えていくだろう。
それを、きっと一つずつ、薬を開発していくのだ。
一つに何兆円というお金をかけて、動物実験をして、臨床研究をして。


わたしには、正直いたちごっこにしか見えない。
病気のおおもとは何か?
人間をストレスフルな状態におくことではないか。
病気になるのは、その人が悪いのではない。
その人のおかれている社会環境が悪いのだ。

西洋医学的な考え、「悪いものは取ってしまえば治る」はまちがっているのではないか。
社会環境は取り除くことができない。
それを無理に取ってしまおうと考えるから、イラクに侵攻したりすることになるのだ。

さて、本当に科学は人を救えるのか。

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2013
05.31

モノづくりの力。

Category: 経済のハナシ
モノづくりに「力」は不可欠である。
しかし、大量生産は人の力をなるべく使わずして作られる。
人で作れば、文句も言うし、育てないといけないし、おまけに給料を食うから。

「機械のチカラ」「電気のチカラ」「自然のチカラ」。
総じていえば、「自然資源」(とそこから引き出した力)。
これらを人の力の代わりに、大量に消費することになる。


人は生産するために、有限なものを浪費し、大量にできた産物を大量に消費する。
なぜ?
≪利益をあげるために≫
無限である時間と人の創造力を節約し、
有限である自然を浪費する。
なぜ?
≪利益をあげるために≫

   ここで問題があるのは、生産者サイドだけではない。
   消費者サイド、買う側も加担しているということ。
   大量生産は大量消費とセットなのだから。

しかし、だれの利益のために?
一体だれの、どんな利益のために、我々は限りある自然を犠牲にしているのだろう。
大量生産による大規模経営は、労働者の給料と福利を下げ続けてきた。
労働者の時間を「時給」という干からびたニンジンで取り上げてきた。
「利益を上げるため」「国際競争に勝つため」に。

彼らは利益率は高いかもしれない。
しかし、労働者の地位、製品・産物の安全性、持続性という観点から見れば、
彼らはダントツに低い順位に甘んじることとなろう。
彼らは進んで犠牲にしているのだから。


人の力を使おう。時間を使おう。
使われるのでなく、浪費するのでなく、
無限たる人の力と時間とを使って、
有限たる自然に負荷をかけない形で、
すなわち必要なものを必要な分だけ。

大量生産品は、可能な限り買わないに限る。
出来上がった製品、箱に入った食料を買うのでなく、
ひとつ前の、材料・食材から買おう。
すこしずつ、取り戻していくのだ。
自分の手で作る喜びを。
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2013
05.30

手に余るエネルギー。平和を、平和を!!

Category: 平和と戦争。
自然に対する暴力、すなわち人に対する暴力。

原子力の平和的利用。
「平和」とつければ暴力は暴力でなくなるか?

膨大なエネルギー、コントロールできない力。
これは暴力に他ならない。


地球が何億年もかけて培い、ためてきたエネルギー。
これを何百年という速さで消費しようとしている我々は、
膨大なエネルギーを、人間の手ではコントロールできない力を使っていることになる。

いや、コントロールしようと思うこと自体がおかしいのだ。
たった100年しか生きられない我々が、何億年単位の資源を制御できるわけがない。
地震や台風にだって勝つことはできないのだから。
人間は地球を支配できることなどないのだ。
それをどこで間違えた。


車もそう。時速60キロはすでに人間には止めることができない。
それでも人は車に乗る。
その速さと便利さが快感だから。
命を落としてからでは遅いのに。

科学は膨大な力を利用可能なものに変えてきた。
「発展」という名のもとに。
「理性の勝利」の名のもとに。
コントロールもできないくせに。


そもそもの考え方が間違っているのだ。
自然を制御しようとしてはいけない。
地球を支配しようとしてはいけない。
こんなこと、自明のはずなのに。
100年しか生きられない人間が、何億年生き続ける地球に勝てるはずないことを。

コントロールできる力を使おう。
人の力。手作業。
もっともっとシンプルな道具。

大量生産など不要なのだ。
長距離輸送など不要なのだ。

使う者と作る者を一致させる。
自分の必要なものを、必要な分だけ作る。


自分の得意分野は自分の分よりちょっと多く作る。
11か12くらい。
自分の苦手分野は人から少し分けてもらう。
得意な人から1か2くらい。

おたがいに融通しあえば十分。
それで十分。
100や200なんていらない。
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2013
05.29

科学の親はだれ?

Category: 雑感。
科学の親はだれか。
人間か、はたまた自然か。
これを考える上で役に立つのは聖書の記述。

神は土からアダムをつくった。
アダムの親はだれか?
神はアダムのあばら骨からイヴをつくった。
イヴの親はだれか?

まちがっても、土であったりあばら骨であったりすることはなかろう。
つくった主体とその材料を混同してはいけない。


さて、人間は自然から科学をつくった。
科学の親はだれか?


人間が科学の親であるのならば、科学の暴走を止めるのも人間の責任。
今の科学は行き過ぎている。
「発展」を至上のものとしているために、自らの内にブレーキを持っていない。
ブレーキなしのチキンレースは、もれなく惨事をもたらす。
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2013
05.29

ことばは魔法だ。

ことばは魔法だ。
そこにないものを人の心に出現させる。
ときに本当に現実のものとしてしまう。

思考・思想・自分が望ましいと思うことは積極的にことばにすべし。
自分の中で考えているだけではスタートは切れない。
ことばにし、他人に伝え、自分に伝えることで、
いまはないものを造りだしてしまう。
ここにないものを出現させてしまう。


ことばは人間の持つ最強の魔法だ。
これに様々なものが付随して、魔法の効果に拍車をかける。
感情、態度、行動、表情、思考、
人間の行いすべてが魔法の効力に影響を与える。

ことばは人間の持つ最強の魔法だ。
望ましいことは積極的にことばにすべし。
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2013
05.29

消費者による後方統合。

Category: 経済のハナシ
モノづくりを、取り戻せ。
我らの愉しみを、喜びを取り戻せ。

創造性は、自分の手を使ってモノをつくりだすところにある。


今、自分の買っているものより、一歩前へ行こう。
ホットケーキミックスを買っているなら、小麦粉とベーキングパウダーを買おう。
思うほど手間はかからない。
お弁当を買っているなら、料理をしよう。
味つけも量も思いのままだ。
写真を撮っているなら、絵を描こう。
データよりも心にしっかり焼きつくものだ。

そこにしかない愉しさがある。
時間はかかるさ、けど、それがどうした。
店頭に並んだパックを見ているより、ネットサーフィンしてるより、よっぽど愉しい。
自分のつくったモノのほうが、おいしく感じるものだ。
自分のつくったモノのほうが、愛着がわくものだ。
機械を介してでなければ作れないものなど、人間の生に本質的に必要ない。
結果も過程もこんなに愉しいことを、機械なんかにさせる必要ない。


すべてのことを一度に始める必要もない。
今まで、少しずつ奪われ、少しずつ差し出してきたものを、
逆に、少しずつ取り戻すのだ。
自分の最も大事にするところから。
自分の生の根幹に当たるところから。

そして、材料を買うなら国産を。
これが我らの暮らしを守ってくれる、グローバル企業による搾取から。

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2013
05.28

自分を生かす。

医者から聞いた話。

 人はガンだから死ぬのではないのだ。
 ガンだから死ぬのだと思うから死ぬのだ。
 骨に転移したって、人間は死なない。

 人の免疫力は、恐れることによって低下する。
 ガンから治った人の多くはガンを恐れなかった。
 ガンと仲良くし、マインドコントロールによって治ったのだ。と。

 多くの病気の原因は、ストレスだという。
 メンタルの病気にとどまらない。
 高血圧、糖尿病、その他いろいろな病気の原因がここにあると。

 みんなが信じていることの多くはロジックではない。
 医療もサイエンスもそう。
 アフリカのまじない師となんら変わらないと。


自分で自分を苦しくしていないか?
自分で自分を生きづらくしていないか?
笑うこと、楽しむことを忘れていないか?

鳥の声を聞いて微笑む。
咲いている花を見て微笑む。
子どもの元気な姿を見て微笑む。
それだけで力と元気と優しさが湧いてくる。

どんなに政治に文句があったって、
どんなに先行きが不安だったって、
何より先に自分自身を愉快にしないと生きてけないでしょ。

自分で自分を不愉快にしていないか?
自分で自分に病気のもとを与えていないか?


しっかり眠ることと同じくらい、大切にしよう。
微笑むことを。
自分を自分で愉快にすることを。
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2013
05.28

二元論は乱暴だ。

なぜ「経済」にばかり目が向けられるのだろう。
-それが「権力」と「金」との両方を内包しているからか?
権力者と金持ちにとっては、おそらく自分の存亡がかかっているのだろう。

でも、一般人には決してそんなことはない。
経済なんて、人の生には単なる一分野・一面にしか過ぎない。
権力と金なんて、人の価値観を崩しさるクスリにしかならない。
きっと権力者は、それを忘れているのだ。
我々一般人には、経済なんて(正直)どうでもいいということを。
我々一般人が望むのは、おだやかな生活、安心のある暮らしだということを。


なぜ経済・技術に倫理・道徳が対置されるのだろう。
そもそもなぜこれらは分けられてしまったのだろう。
古代ギリシャではすべてが「哲学」のもとに語られていたのに。

分ければ分けるほど、極端になっていく。
同時に持つべきもの、切っても切れないものを捨て去っていく。

黒の反対は白ではない。
黒でないものだ。
ヘリクツではない、そういうものだ。
暴力の反対は平和ではない。
非暴力だ。
本来、そうとしか表せないのだ、ことばでは。


それを、何か相対する二つのものですべてを包含できるような発想。
これは他のあらゆる存在を捨象する。

非常に明快でわかりやすい議論となるが、それもそのはず。
わかりにくいもの、二つの中に取り込めないものを無視しているのだから。
共存すべきモノを無視し捨てていく。
それがないとうまく機能しないのに。

二元論は乱暴だ。


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2013
05.27

権力と金と価値観の崩壊。

人の素性を知りたければ、彼に権力をもたせるのがいいと言った人がいた。
まさにそのとおりだ。
もともとからそこまで悪い人はいないと思う。
ちょっと悪めの人とか、やんちゃな人はいるだろうけど。
彼らだって限度があるから。

ただ、二つのものが人を簡単に操ってしまう。
「権力」、そして「金」。
これに絡め取られたら最後、それ以前の自分を保つのは難しい。
幸か不幸か私はそのどちらとも無縁だから、穏やかにこんなことを言っているが、
私だってどうなるかわからない。


私が一番怖いのは、自分の(まともな)価値観が壊れてしまうこと。
こわそうな所に行かないのも、ギャンブルをしないのも、これが一因でもある。
(単なるビビりって言うのもあるんだけど。)

万引きGメンとか好きだったから、ああいうの良く見ていたけど、
「なんでこんなことしたのかわからない」とよく聞いた。
彼らはきっと(まともな)価値観が壊れてしまったんだ。
かつて、一度好奇心か軽い気持ちかで万引きをし、それが図らずも成功してしまった。
一度そんなことになれば、今までお金を払って買っていた自分がバカみたい。
でもこれはいけないことだと良心はさいなめる。

良心と、崩れた価値観の間で、衝突が起こる。
勝つのは、「でもばれなければいいや」という気持ち。
ばれなきゃいいんだから、何度もやる。
そして、ばれたときには「どうして『ばれなきゃいいや』って思ったんだかわからない(だってばれてしまったから)」。


権力をもつのも、金をもつのもおそらく一緒。
何でも思いどおりになるということ。これを一度経験したら、もう後には戻れない。
それまでの価値観はもろくも崩れ去ってしまう。
だって神的な万能感を得られるんだもん。
クスリとも一緒かもしれない。
一度味わったら一生抜け出せない。


崩れた価値観は元には戻らない。
権力者と、金持ちは特に注意すべきこと。
「自分の価値観は、崩れていないか。」


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2013
05.27

外国産への転換。

Category: 経済のハナシ
どこだかの企業は中国産やらオーストラリア産のお米を売り出していると。
国産が主だったものをなぜ外国産に切り替えるのか。

消費者がより安い値段で買えるように、ではない。
当たり前の話だが、グローバル企業は消費者のことも国民のことも頭にない。


彼らが行動をとる理由は、それが利益率を上げるからである。
それ以外にはない。
国産のモノを売って儲けるよりも、外国産のものを輸入して売ったほうが儲かるから。
だからわざわざ国産から切り替えてまでして売りに出す。
国民に、《国産以外のお米に対する抵抗感》があっても売り出す。
それが安ければ必ず買うと思っているからだ。

これがすなわち何を意味するか。
我々に還元されるのは、たった一割程度、数百円程度の安さ。
それを還元してもなお、彼らにはより多くの利益が残る。
外国産はそれだけ廉価につくれる。
自然の酷使と安全性の無視は彼らにとって損失とみなされない。
だから外国産を売る。


アメリカは、日本にコメの市場を開放するよう要求し続けてきたが、
ウォルマート戦略は、それを具現化している。
ここへきて我らの基礎食品たる米への欲望をむき出しにしてきた。
国がだめなら消費者から、と。

しかし、おそらく中国産米はうまくいかなかった。
日本人は、中国産の農産物に対する不信感を少なからず持っているから。
だから、中国産が人目に触れないところでは用いられても、
小売店で売れることにはならなかった。

そこで、彼らはオーストラリア産に目を向けた。
これはオージービーフもあるように、日本人から一定の信頼は得ていると思われる。
だから、「食の安全性」を前面に押しつつ、外国産の米への抵抗感を和らげることにしたのだろう。


ただ、彼らは、できれば中国産米を大々的に売り出したいはずだ。
オーストラリア産よりも中国産のコメの方がコストも安いだろうから。
だから、オーストラリア産で成功すれば、彼らは次に他の国のコメを売りに出す。
アメリカ産か、インド産か、東南アジア産か。
そして、国産のコメの棚を減らしていくのだ。

「外国産しか売ってない」状態が彼らのベスト。
そうすれば、消費者はそれを買う(しかない)から。
安全性が無視されていても、農薬たっぷりでも、自然を酷使していても、それしかないから。


目先の相対的安さに嬉々としてはいけない。
好奇心にも負けてはいけない。
彼らは安さでは償いきれない多くのものを危機におとしいれる。
それがオーストラリア産であっても。
君子危うきに近寄らず。

門をくぐってからでは遅い。
最後の砦は守らねば。
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2013
05.26

「付加価値」のハナシ。

Category: 経済のハナシ
一般的理解…独自に積み上げてきた価値。既成のものに自ら労働を加えて加算された価値。
経営学的理解…その場から自分のみがいなくなることによって、市場から失われる価値。


機械化、産業の「効率化」は人の手をなるべく省力化したがる。
機械のほうが、大規模に、簡単にできる。同じことを延々やらせても文句ひとつ言わない。
人間のほうは、給料は食うし、ミスはするし、育てないといけない。
人を育てることほど、熟練を要し、手間と時間のかかるものはない。
(その分喜びも自らの成長も多いのだが、それは「企業の利益」には換算されない)

ここ何百年かの労働は、労働者の付加価値を多分に奪ってきた。
彼らは消えても、市場からは何の価値も失われない。
「代わりはいくらでもいるのだから。」
だから労働者の報酬は、あらゆる手を使って切り詰められる。

グローバル化による市場の統一、グローバル企業の席巻は、これを助長する。
日本国内だけですんでいた「代わり」が、全世界に広がる。
「代わりは世界中にいくらでもいるのだから」君を雇う必要はない。
給料は下がり続け、福利厚生も限りなく切り詰められる。


現政権が(すすんで)ひれ伏したのも、これと同じ言葉である。
「代わりは世界中にいくらでもいるのだから」日本にとどまる必要はない。
だから、法人税を下げ、原発を再開し、最低賃金を廃止し、我々が立地しやすいようにしろ。と。

だからこそ現首相は、施政演説でも参院選公約でも掲げたのだ。
「世界で一番企業が活躍しやすい国」という言葉を。
彼らがひれ伏すのはグローバル企業に対して。
献上物には、日本の忠実勤勉な大卒労働者を安値で。
これで満足でしょうか、お代官様。
他にもご所望があれば、なんなりと。

彼らにとっての御上は、国民ではなく、アメリカとグローバル企業なのだ。
グローバル企業を牛耳るのは、アメリカ人株主。
ごく一部の超裕福な階層の株主たち。
すなわちグローバル企業=アメリカ。

グローバル化を推進する理由は明らかすぎる。
我らは差し出される献上物にしかならない。


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2013
05.25

「右に倣え」個人主義。

日本人は和を大事にするという。
空気を読み、その場に合わなそうだと思うことは慎む社会。
たとえ相手の発言が間違っていようとも、みんなが静かに聞いていれば、黙っている。
空気を読めないものは無視され、いじめられる。

これと反するのが欧米の個人主義だという。
違うと思ったことを違うといえる社会。
個人を尊重する社会。
なにか素晴らしい観念が広がっているようにいう。

ただ、彼らの個人主義も我らの空気読みとなんら変わらない。
自分の主張ができないもの、シャイで発言ができないものは無視され、いじめられる。


何を尊ぶかが違うだけ。
それに倣えないものは排除される。

尊ぶ対象はそこまで問題ではない。
問題は、それに外れたものを排除しにかかること。


人間だから、常に枠内に居続けることは大変だし、難しい。
時に外に出たくなったり、意図せずともはみ出てしまうこともある。

全ての人間が既成の枠から外れる可能性がある。
であれば、枠を重視して彼らを閉め出してしまうのでなくて、
そういうこともあるよね、とまた枠のうちに戻ってこれるように開けておくのがいいのではないか。

だって、自分だってはみ出してしまうかもしれない。
その可能性をゼロにすることは難しいし、そんなことする必要はない。
だってみんなそうなんだもん。


枠を壊してしまう必要もない。
ある程度の一体性、共通観念は共同体の維持に不可欠だから。
でも、門の鍵を開けておくこと、すこし外とつなげておくこと、は要るんじゃないかな。

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2013
05.24

ダルマ。

我々に必要なのは、害を与える行為を慎むことだけだ。ダルマは、善行を行う、ということよりも、善良である、ということなのだ。
          (『君あり、故に我あり』サティシュ・クマール、79頁)

再びこの本から。

善行をするよりも、善良たること。

難しきかな。
でも、必ずしも間違ってはないかな。

善良たれ。



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2013
05.24

理性と本能。

Category: 雑感。
すでに本能を失しているのが人間。
理性をもったのが人間。
本能だけでは生きていけないのが人間。
これが動物と違うところ。

いまだ本能を残しているのが人間。
理性をもってしまったのが人間。
理性だけにはなれないのが人間。
これが神と違うところ。

本能だけになることはないだろう。
理性だけになる必要もないかもしれない。


動物と神との中間として語られることの多い人間。
とはいっても人間自身がそう語っているだけだけども。

そりゃそうか。
客観的になどなれるはずもない。
人間を語るのは人間以外にいないのだから。

本能と理性だって、どこで区切れるかわかったものじゃない。
混然一体のものかもしれないし。

人間の倫理的に善しとされている(ような)部分を切り出して「理性」とし、
それによって通常支配されている(ような)部分をまとめて「本能」としているだけかもしれない。
概して「動物的」は否定的な言葉だし。


感情は理性か、本能か。
やはり、二分法はだめなんだな。
いや、それ以前に、そうやって区切ったところで何になる?
区切る必要のないモノを区切っていないか。
方向チェンジが必要か。


それとも、「語りえぬものについては沈黙しなければならない」のかな。


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2013
05.24

「本質」議論。

本質論は仕方ないものか。
どこまでよいのか、どこからよいのか。
「生物は生きようとすることが本質」とか?
でも、、、

本質的とか、自然とか、なにを示すのか。
「それがないと、それだといえない」もの?
生きていないと生物とはいえないとか。

ただ、これだと同語反復的にしか語り得ないのではないか。
それ以外には語ることはできないのか?
それ以外はこじつけ?思いこみ?刷り込み?


手段と本質を混同しているのか?
寝ることは生存に不可欠だが、一年寝ていない人間は生物でないとはいえない。
(バケモノとは言われるかもしれないが)
でも、寝ないと生きていけないよ。
不可欠と本質は別モノか?


本質論や自然論は避けるべきものか。
それとも、積極的に使っていくものか。

「~すべき」という当為を導くために、「本質」は使われる。
物事の本質を見ろ、(今のお前の見方は間違っている)とか。
人間の本質はこうだ、(だから人間はみなこうすべきだ)とか。
当為の正当性を示すために、根拠は必要であり、
その最終的根拠として語られる。

積極的に使えば、反対意見を黙らせるためや、「これが本質だから仕方がない」のように、
議論を(強制的に)終わらせるための手段になりかねない。

ただ、本質論がなくなれば、いったい何を根拠にしてよいのか分からない。
現在不合理と思われる制度や慣習を廃するための根拠を何に求めたらよいのか。
やはり本質論が便利にも思われる。


もしかしたら、正しい正しくないというよりも、
より住みやすくなるのはどっちか。
これを考えたほうがいいかもしれない。
そうすれば、本質論の欠点を回避しうる。
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2013
05.23

強い「同質化」作用。

Category: 雑感。
私が高校生の頃、
私の知っている「グローバル」は異文化理解だった。
自分たちと違う文化を理解し、尊重しようという試みだった。

私が大学生の今、
私の知っている「グローバル」は同質化ではないか。
自分たちと違う標準を撤廃し、自分たちに合わせるように強いる、
世界各国で経済的利益を吸い上げようという試みになってしまった。


本来、望ましい方向性として迎えられたはずだったのに。
自分たちが無意識のうちに身に付けた文化を相対化し、
自分の文化も相手の文化も同じくらい尊重しようという寛容の広がりだったはずなのに。

「グローバル」は、経済的優位国の標準の絶対化のためにあるのではない。
経済的植民地化のためにあることばではない。
それは自分のモノの見方を相対化し、異なる文化をもつ相手との間に優劣・偏見をつけないことを目指していた。続きを読む
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2013
05.23

程度の変わらない思考。

女性手帳は希望者だけだと。
いったい誰がもらいに行くんだか。

これぞ無駄。
仕分けされてしかるべきじゃない。

きっと、各市町村の役所には山積みになって置き場所に困るんだろうな。


女性差別と批判を受けたから希望者だけにするっていうのはまるで、「行政の側は女性差別思考を変えないけど、君らが嫌ならもらわなくていいよ」とそう言ってるようだ。
「これで出生率が変わらなくても、それは行政側のせいではないからね、君らがもらっていたら変わったかもしれないんだからね。」と。


この女性手帳そのものの問題は、それが女性差別だから、というだけではない。
こんなもので晩婚化・出生率低下を改善できる、と思っていること自体が問題なのに。


希望者のみに配布する、と決めた人間も、女性手帳を作ろう、と考えた人間も脳みそは一緒。

水面に見える問題を、その水の上っ面をすくって取り除こうとする。
水に手を突っ込まないと、表出する問題の本体には触れられないというのに。
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2013
05.22

信ずべき「神話」はいかなるものか?

「個人」も「自由意思」も人間の真理ではない。
ただの神話にすぎない。
聖書の記述や、八百万の神のお話と一緒。
みんなが信じているとき、それはうまく機能する。
人々をつなぎ合わせ、共通の意識として社会の基盤になる。


しかし、同時にそれは「絶対の真理」としての危険性をも持つ。
「たかだか神話に過ぎない」ということを忘れれば、
他人に対する不寛容、攻撃性があらわになる。
 この正しさを理解できないものは間違っている。
 「真」を真と見ないものはすべて「偽」である。

絶対性は、他のものとの共存を受け入れないから。
ここから始まった惨事は数を知らない。


なれば、「どんな神話を信ずるのが妥当か」。
こう考えてみてはどうだろう。

今主である神話が生きにくさを助長していれば、他をつくればいい。
新しい神話。
みんながなるべく楽しく穏やかに暮らせるような社会の基盤たりうる神話。
実は、アメリカ建国期における神話こそ「個人の自由」だった。
これが、その昔イギリスから移住してきた彼らが楽しく穏やかに暮らすために考え出した新しい社会の基盤だった。


「これが絶対の真理だ」と考えるよりも、
「なるべく生きやすくなるような神話」を考えたほうが、
より創造性豊かで、より寛容で、より愉しいんじゃないか?

宗教だって無数にある。
その地域・人間のカタチにあった「神話」だって無数にあっていいじゃない。
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2013
05.21

時間の節約と労働の節約は有効か?

著者が彼の母について語る場面の一。
母親がショールを手でつくるのを見ていた姉が、母に問いかける。

「お母さんのお裁縫はとても綺麗だけど、一つのものを作るのに半年や一年、ときにはもっと長い時間がかかるわ。最近は同じことをあっという間にやってしまう性能の良いミシンがあるのよ。私が探してあげようか」と姉のスラジが尋ねた。
「どうして?」と母は聞いた。
「時間が節約できるのよ、お母さん」
「時間が足りなくなるとでもいうの?
ねえお前、永遠っていう言葉を聞いたことある?神様は時間を作るとき、たっぷりとたくさん作ったのよ。・・・なぜ急ぐのかしら」。スラジは納得しているように見えなかった。「時間を節約し、労働を節約して、それ以外のことをもっとできた方が良くないかしら?」
「あなたは無限なものを節約して、限りあるものを費やそうとしているのよ。
ミシンは金属から作られていて、世界には限られた量の金属しかないわ。・・・」
   (下線は引用者)
(『君あり、故に我あり 依存の宣言』、サティシュ・クマール、2005、59~60頁)


なくしていた考え方がそこにあった。

しかし、時間も有限ではないか。
いや、時間と金属、時間と天然資源の有限の度合いははるかに違う。
資源はある分しかない。かつ、その消費するスピードはどんどん増している。
時間は違う。
私たちはその始まりを知らない。その終わりがあるのかすら知りえない。
始まりも終わりも知りえないものを、私たちは「永久」とよぶ。

ただ、時間を「私ひとりの生」の時間とすれば、有限であろう。
長くても100年ないくらいの。
そうした場合、「有限の資源」と比べていいものか。
「私ひとりの生」と、地球が何億年もかけて培ってきたものを。


この場面での母親は、来世も信じているために、それこそ「永久」の時間をもつ。
ここに反論することもできるかもしれない。来世などないのだ、と。
しかし、「信じる/信じない」という言葉しか使えない。
来世があるかどうかは、証明できない。
信じた方が楽か、信じない方が楽か。それだけだ。



「無限なものを節約し、有限なものを費消しよう」は現在の主流ではないか。
機械を最大限に、人の労働を最小限にすること。そうすることで規模の経済と人件費の削減が達成でき、利益率の上昇につながる。
これが現在の経営の基本なのだ。

無限を節約して、有限を浪費してはならない。
時間をたっぷりかけたものの方が、仕上がりだっていい。
「安かろう悪かろう」は決して過去の話ではない。
現在の「悪かろう」は、商品の表には出てこない。
労働条件の悪さ、原材料の安全性の低さ、という裏に潜んでいる。
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2013
05.20

「孤」人の増加と個人主義。

憲法の基本原理は個人主義。
確かにその通りだ。
しかし、ここから「日本人は個人主義たるべき」というふうにはならない。

なぜなら、憲法が縛っているのは国である。
国に対して、「国民は個人として尊重しなさいよ」と言っているにすぎない。
憲法は個人主義と言っているのだから、みんな国に頼らずに生きなさいよ、は間違いである。
(自民党にはこの気があるように思えるが)


それから、私は個人にそこまで重きを置いていない。
これは、集団のために個人は無視されてしかるべきというのではない。
「人は一人では生きていけない」からだ。


個人主義は「主義」でしかない。
欧米から輸入されてきて、たかだか100年200年のモノ。
欧米人にとっての個人主義と、こちらにとっての個人主義は全く異なる様相を見せる。

彼らにとって、個人主義とは自由と不可分である。
自由という、何ものにもかえがたい天賦の権利を守るための手段である。

我らにとって、個人主義とはなんであったか。
いまだ、定着しているものとは思いがたい。
ともすれば、「個」ではなくて「孤」になりがちな我らには。


~主義と名のつくものは、どれも尊重すべきものとしては貧しすぎる。
個人主義だけにとどまらない。
自由主義、資本主義、共産主義、社会主義。
いずれも、人間の信念、真理にするにはあまりにお粗末。
いずれも欧米で発達してきた概念にすぎない。
土地が変われば人も変わる。
欧米で発達したものが必ずしも他の土地に良い影響を与えてきたわけではない。


だから私は、一人で生きていくことを強いる社会、国の方向性に抗いたい。
競争に勝つために、資本のために、効率性のために、成長のために。
人はどこへいった?
人間は一人では生きていけないんだよ。
私は一人で生きていくには弱すぎるんだ。

強いものしか生き残れないようでは、人間は続かない。
人だけではない、生物一般に当てはまること。
だからこそ、強きは弱きを守ることがよしとされる。


「伝統的に良しとされてきたこと」は尊重するに値するものも多い。
それが生き延びるために必要なことと不可分であるからこそ良しとされてきたのだろう。
「伝統的=すべて正しい」にならないことは当然だが。
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2013
05.19

言葉の入れ替えによる解釈の一新。

自民党の改憲案は、これを狙っているのではないか。
「公共の福祉」から「公益及び公の秩序」への変更の裏で。

戦後60年以上も用いられてきた「公共の福祉」という言葉は、判例でも学説でも多く議論され、一定の理解、解釈が存在している。つまり、国が一方的に解釈を変えることは不可能であるということを示す。


しかし、国の最高法規たる憲法に、「公益及び公の秩序」という新たな言葉をつくってしまえば、国がみずからの意図に沿って解釈をつくっていくことが可能になりえる。
それに対する解釈はいまだ存在していないのだから。
これからの運用、活用でその意味するところが徐々に明らかになっていく。

自民党の改憲案の全体から、彼らが憲法に求めるものはわかる。
国を縛る法から国民を縛る法へ。
国民はお国のために財産はおろか命すらも差し出すように、と。
そのような意図であれば、当然に「公益及び公の秩序」も同様の趣旨で用いられるに違いない。


付け足しておくべきは、憲法の番人である司法。
おそらく、憲法改正自体を制御する力は司法権にはない。
後はその解釈、運用にどれだけ文句をつけられるか。
しかし、これは次善の策にすぎないし、そもそも怪しい。
司法だって権力の一つであり、憲法に拘束されるのだから。


一番大事なのは、これを未然に防げるかどうかである。
国を縛っておくための鎖を、国民がわざわざ外して、自分自身に付けかえるなんてことのないように。
我々はもう、人任せになどできない。



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2013
05.19

愉しみを取り戻せ。

高度な専門化、機械化は我々から愉しみを奪う。

ともに唄うたのしみ、ともに踊るたのしみ、
ともに作るたのしみ、ともに語るたのしみ。


うたは、気持ちを人に神に伝えるもの。
かつてはみんなが唄った。
今はうまい人しか唄えない。

おどりは、気持ちを人に神に伝えるもの。
かつてはみんなが踊った。
今はできる人しか踊れない。

子どももお年寄りもみんなが、家族に社会に貢献する。
あなたのために私は生きているのだ、とみんなが実感できる。
かつてはそうだった。
今は専門家しかつくれない。
高度な機械は、使う人を制限し、使われる人を増やす。

科学は専門家にしか語り得ない。
今の学問は専門家にしか語り得ない。
高度に分化した智は、語る人を制限し、他を無きものとして扱う。
外部の人に語られるのを妨げる。


愉しみを奪われていないか。
愉しみをみずから差し出してないか。
愉しみを面倒や時間の無駄に変えてしまったのでは、生きにくいよ。きっと。
物理的には豊かになっても、生きにくいよ。

モノづくり、料理、労働、家事、勉強、子育て、介護。
何もかも、面倒にしてしまって、何が残るのか。
「効率」のためにあらゆるものを省力化して、外部化して、残ったのはもぬけの殻。
国も、人間も。
もぬけの殻。


取り戻せ、自分の内側に。
モノを作る愉しみを。
ご飯を作る愉しみを。
ともに語り、唄い、踊る愉しみを。
愉しみを取り戻せ。
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2013
05.18

「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に変えることについて。

自民党の改憲案-「公益及び公の秩序」。
法律を学んでいない人にはおそらく違いがわからないだろうと思う。
現行憲法の「公共の福祉」という言葉はわかりにくいから。


しかし、だからこそ気をつけねばならない。
「公共の福祉」と「公益及び公の秩序」は真逆のことを言っているといっても過言ではない。

簡単に言えば、「公共の福祉」とは「みんなのため」である。
だれか特定の人の利益にはなるが、ほかの人々に害を与えかねないときに、その特定の人の利益のほうに引いてもらうために、「公共の福祉」なる概念を用いる。
つまり、特定の人のためではなくて、もっと広い範囲の「国民のため」という意味を持つのがこの言葉である。


一方、「公益及び公の秩序」とは、「お国のため」である。
お国のためには一市民の利益など取るに足らない。
お国のためには国民の害など許容されてしかるべき。
これらが正当化されるのが、この言葉である。

現政権の求める「愛国心」という言葉もこの流れに沿っている。
「お国のために」命をささげる国民を、彼らは欲している。
まさに、戦前の風潮と同じ。
9条を変えたがっているのも、同じ流れ。
戦争を起こすための予備的行動といえる。


「お国のために」、一体どれだけの人が人殺しになり、どれだけの人が犠牲になったか。
自民党の「公益及び公の秩序」という言葉には、この「お国のために」という意味しかない。
「公共の福祉」とは正反対の、戦争まっしぐらな言葉である。

これが憲法に書かれてしまえば、これほど恐ろしいことはない。
「国民は、お国のために、何事も制限されて当然だ」ということになるのだから。



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2013
05.15

原発と原爆の危険。

それは、放射能。
人間には消すすべがない。
すなわち、半減させるだけでも何十年とかかるその時を、待つしかない。
使用済みの核廃棄物と使用期限切れの原発を、二度と動き出さないように冷却し続けながら。
それまでの「経済的利益」など簡単に吹っ飛ぶような、大きな負の遺産である。

フクシマの現状をみれば、それは明らかであろう。
人の住めなくなった土地。
農業の出来なくなった土地。
故郷に帰れない人々。
荒廃していく故郷。


ただ、放射能の恐ろしさを思うと、なにより広島・長崎が思い浮かぶ。
この2都市もかつて放射能をばらまかれた。
原爆という非道な凶器によってとてつもない数の命が奪われた。
爆発の瞬間に奪われた命も多かったが、そこで生き延びても白血病や癌で命を落とした人も数知れない。

しかし、いったんは「植物も生えない土地」だといわれたこれらの街が、
いまや大きな都市になっているではないか。
人もたくさん住み、観光地として多くの人が訪れるではないか。


ここが私には疑問に思えて仕方がない。
ヒロシマ・ナガサキと原発の違いはなんであろう。
放射能度の違いであろうか。
核物質の量の違いであろうか。
ヒロシマ・ナガサキの原爆は許されないとしながら、なぜ同じ原子力を用いる原発は許される、とするのだろうか。
むしろ、原発は原爆よりも危険なものだ、という見方の方が自然ではないか。

原爆と違って、爆発そのものによる被害者はいない。
だが、その放射能による影響は既に出始めている。
放射能の恐ろしいところは、なによりも蓄積されていくところである。
すぐに被害が明らかになることもあるが、それよりも人体に蓄積され、しばらくたってから癌や白血病の増加という甚大な被害が出てくることの方が恐ろしい。


しかし政府は確実に「原発とは関係がない」と言うだろう。
きっと、個人の生活習慣のせいにでもするつもりだ。
彼らにとって、原発を止められるのは「経済的に」困るからだ。

人の生命・身体の安全を脅かすことが明らかになれば、それは確実に止めなければならない。
そうでなければ憲法違反だからだ。
現行憲法13条「全て国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
現行憲法25条第一項「全て国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」


それとも、原発を止めることは「公共の福祉に反する」とでもいうつもりか。
現政府なら言いかねない。
なぜなら自民党の憲法改正案では「公共の福祉」ということばを「公益及び公の秩序」と変え、「公共の福祉」の持っていた「国民のために」という意味を没却し、もっぱら「国のために」という意味を付与してしまうのだから。

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2013
05.14

中国の発想。

Category: 平和と戦争。
どうやら中国は領土問題を声高に言っているらしい。
だが、中国とこの話をすべきではない。

なぜか。
中国人のモノの見方はちょっと他の国と違うからである。
それは、「区切れるものではない」ということ。


中国は、かつて大帝国として繁栄していた。
皇帝は天から政治を任され、民を統治していた。
皇帝の権威というのは、中国という一国におさまるものではない。
それは暗闇の中の光のようなものである。
中心たる中国が一番皇帝の権威の輝く場所で、遠く離れていくに従って、だんだんと弱まって薄まっていく、グラデーションのようなもの。
これが中国における権威の考え方である。

だから、国境で区切られ、「ここまで」と決めつけられるのが嫌いなのだ。
だって「天から授かった権威」というのはそんなもんじゃないから。


これに対抗するのは無理である。
論理的にも、軍事的圧力を使っても、無理。
だって中国から見れば「権威は区切れるものではない」のだから。
そうなれば、対抗するのではなくて、避ける、というのが重要になる。
このような発想を持つ中国と穏便に暮らすには、領土については触れない、ということが肝要である。

沖縄だけでなく、尖閣諸島もそう。
そんな話などなかったことにする。
お互いに触れずに忘れる方向へ持っていくこと。

こういう問題は、先に手を出したほうの負けである。
あくまでも穏便に行くこと。そして穏便に忘れてしまうこと。
わざわざ紛争の種に水をやる必要はない。
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2013
05.13

実語教を読んで。

新しく知ったことはただ一つ。
「何も新しいものはなかった」ということ。
たった1,2ページの短い文章だが、「そうだよね、そういうもんだよね。」で終わってしまい、驚きや発見は何もなかった。

でも、このことはとんでもなく重要。
何も新しいことがないということは、すでに自分の中にその芽があったということ。
これこそ両親、祖父母、近隣から脈々と受け継がれてきた精神ではないか。
これこそ大事にすべき心持ではないか。

逆に、『学問のすすめ』の方はこうはいかなかった。
こんな発想をしているのか、と新しく知ることろが多々あった。
近代帝国主義の中で「富国強兵」を進める必要性が色濃く出ている。
この延長に軍国主義があった。
「学問のすすめ」=軍国主義ではないが、その思想を恣意的に用いれば、軍事国家への道を突き進むことができる。国民の福祉を一切無視することもできる。
その一つが、首相が使った「一身独立して一国独立す」である。(参考:前々回のブログ
首相のこの使い方は明らかに誤りではあるのだが。

実語教も学問のすすめもその当時の子供向けの書であるが、
やはり「欧米列強」を知る前と後では大きく違う。


学問のすすめよりもすんなり入ってくる実語教。
斎藤孝さんもこの書に注目し、本を出している。

実語教そのものを読んだことのある人はそこまで多くないだろうが、
ごく当たり前のことしか書いていないはず。
以下の引用部分は、青空文庫より。
最初の文。

 山高故不貴 以有樹為貴
 人肥故不貴 以有智為貴

山は高いから貴いんじゃない。樹があるからこそ貴いんだ。
それと同じで、人は金持ちだから貴いんじゃない。智があるからこそ貴いんだ。

「智」とは何ぞや。
専門家の知、知識としての知は誤り。
「物事の道理をよくわきまえていること」なり。


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2013
05.13

「強い国」の強さ。

現首相が目指す「強い国」とは何を指すか。
軍隊を持ち、「公益」のためには戦争をする。
高い経済成長をし続け、大企業が多く立地する。
こんなところだろう。

しかし、ここに一般市民の居場所はない。
安倍総理の意味する「強さ」は、弱いものをかえりみない。
こんなものを強いとは言わない。


強さとは物理的に力の強いことでも、弱いものを屈服させることでもない。
弱いものを守れるものこそ「強い」のだ。

いじめっ子が強いからといって、それは「強い人」とはいえない。
心の広い人、いじめられっ子を守れる人こそ「強い人」といえる。


これは、人間個人で見てもそうだし、国単位で見ても当てはまる。
国際的地位の高さは、物理的有形力の大きさには比例しない。

実際、核を保有する五大国よりも、経済的にずば抜けているアメリカよりも、脅しを続けている北朝鮮よりも、北欧やカナダといった国々のほうが、国際的に尊敬を得ている。
だから彼らは国々の仲裁や仲介を頼まれるのだ。
いまだかつて、私はアメリカや北朝鮮が他国から仲介を頼まれているのを見たことがない。


「強い国」を「優しい国」に変えるべきだ、という他党の意見もあるが、それは単なる言葉あそびにすぎない。
そうではなくて、意味するところは何か。それを重視する必要がある。
すくなくとも、政府の言う「強さ」は、容認できるものではない。

真の強さとは、弱いものを守ること。これに尽きる。
そしてその真逆を行くことこそ、今の政府の目指す「強さ」である。


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2013
05.13

あからさまな首相の意図。

都議選の話と、施政演説が出てきた。
首相の話をみると、彼の意図が透けている。


まず都議選の話から。

一つ目。彼は政治の安定を求めた。
つまり、今の政権、自分の政権を邪魔するな、持続させろ。ということ。

二つ目。彼は都議選を準国政選挙と位置付けた。
つまり、彼にとって日本国≒東京都。地方を軽視しすぎ。
自民党は口では地方分権というが、明かなる中央集権国家へ向かっている。

さらにいえば、国のトップたる首相が都議選に関与するな。
これじたい、実はおかしいこと。
地方の選挙に平等に顔を出すならば公平だが、彼はそんなことしてない。
ここでもやはり東京偏重が見られる。


それから、首相の施政方針演説から2つ。

彼は日本が最も企業が活動しやすい国にする、と。
彼にとって、「企業」=大企業。
「日本が最も国民の住みやすい国にする」意志は彼には皆無であることがみてとれる。


それから、序文で彼は福沢諭吉を出してきたが、いいように使っているだけ。
「一身独立して一国独立する」とのことば。
これは、軍事的にでも経済的にでもなければ、「誰かに寄り掛かる心を捨て(演説から引用)」、自分だけの力で生きていけ、というものでもない。

そうではなくて、精神の独立。
すなわち、「物事の是非は自分で決める」ということ。
個人として「これはいい、これは悪い」を他人の意思にゆだねず自分で判断し、
一国として「これはいい、これは悪い」を他国の意思にゆだねず自分で判断する。
(決して頑固になることでも我を貫くことでもない)
これが近代において福沢諭吉が次代に求めた力である。

そして、他でもない今の政権に足りない力である。


彼の意図はたしかに一貫している。
大企業偏重、グローバル化礼賛、中央集権国家、軍隊の保持。
だが、その意図は我々に利益をもたらすものでは決してない。
それどころか、我々一般市民の利益を奪ってグローバル企業にささげようとするものだ。
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